こんなに全力で走ったのは何時以来だろうか?
帰宅ラッシュで賑わう駅の改札を長身の将博は泳ぐように人波をかき分ける。
急遽、下請け会社のミスで納品先に直接謝罪、納品に行くことになり、彼にとっては今までの会社の付き合い飲み会で一番大切な会に猛烈に遅刻している。
同僚や後輩からメールが怒涛に携帯電話を叫喚させる。
今日は彼が兄の様に慕う上司の定年退職の日だった。
一回り以上歳の離れた上司は入社当初から将博を良く可愛がってくれた。
二人とも仕事と酒が好きで、馬が合い熱く仕事に取り組んでは、いつも呑みに行った。
「ありがとうございました」
店員への返事もそこそこに。花束を大事に抱え、走る事ができなくなった将博は腕時計を見ながら、大股で居酒屋へ向かう。
見慣れた暖簾を潜ると、いつも二人が座る奥の座敷に人集りが見える。
上座には白髪交じりの髪で年の割にはがっしりしているが、小男の橋場課長が見える。
部下の女性に隠しながら花束を渡し、課長の下へ。橋場課長は将博を見つけ嬉しそうに
「どちら様ですか? 」
と憎まれ口を叩く。将博も負けじと
「お早いですね。お仕事はされているんですか?」
と言い返す。二人のいつもの様子を見て場が和む。
一人の部下が将博に乾杯の音頭をとらせる。
グラスを手に将博が立ち上がる。天井に頭が着きそうだ。
課の皆が見上げる中、将博は電車の中で考えてきた思い出話を、いつものように皮肉まじりに挨拶に代えてやろうと橋場課長を見詰めた瞬間。
グラスの中に何か入った。
不思議に思い目線を更に落とすとぼたぼたと水滴がテーブルや腕に垂れる。
(涙だ・・)と気がついた後も、何度拭けども溢れる水滴は止め処なく、思っていることは何一つ声にならず、中年の将博がグラスを持って立ったまま子供の様に泣きじゃくった。
立ち竦み泣く将博を見て、あちこちから鼻をすする音が聞こえる。目を真っ赤にした女子社員が近寄り将博に先程の花束を渡す。
涙を腕で擦りながら、せめて一言はと課長の顔を見ず、頭を下げて
「お世話になりました」
と力強くしかし揺れた声で将博は言った。本当はもっと感謝を伝えたかった。
「これからは奥さんを大事にしないと熟年離婚ですよ!」と憎まれ口も言いたかったが、それが精一杯だった。
橋場課長は花束を受け取ると言った。
「バラの花かぁ、女房が喜ぶよ。ありがとう、みんなありがとう。」
こういう人だった。言いたい事を全てぶつけても、言えなくても全部受け止めてくれた。この人が好きで仕事が頑張れた。この人の下で働きたかった。
そう将博は思いながら、思い出の多さの分だけ涙が溢れた。
「また飲もうな。後輩を大事にしろよ。」
そう言って課長は人込みの中へ消えて行った。
将博は彼の背を睨む様に見つめながら「今度は自分がこの人の様になる番だ。」と自身に誓った。
ありふれた毎日を特別な一日に
お世話になったあの人に 思い出薫るザ・プリンスを
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